之を亡ぼせり、命なるかな|4月3日のことです。

伯牛、疾有り。子、之を問う。牖より其の手を執りて曰わく、之を亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして而も斯の病あるや、斯の人にして而も斯の病あるや。(雍也第六)

はくぎゅう、しつあり。し、これをとう。まどよりそのてをとりてのたまわく、これをほろぼせり、めいなるかな。このひとにしてしかもこのやまいあるや、このひとにしてしかもこのやまいあるや。(ようやだいろく)

【訳】
伯牛が不治の病にかかった。先師が見舞いに行かれて、窓から手を取り、歎いて言われた。
「惜しい人がなくなる。天命かなあ。それにしてもこのような立派な人物がこんな病にかかるとは。このような立派な自分がこんな病気にかかるとは」
※伯牛は字、姓は冉、名は耕。

4月3日、今日の論語一日一言の言葉です。

”運命とわかっていても悔しがることで愛情を示す”と論語コンプリートにあります。

病気なれば「おめでとう」という時代がきた。という言葉を思い出します。

不治の病というのはこの医学が発達した世の中でも根治することはできないものです。

自分自身が病気なったときは「おめでとう」と言えますが、自分の周りの人が病気になった場合はそうは言えません。

病気を憎んだりしても仕方がないし受け入れるしかありませんね。

しかし、なぜ二度同じ言葉を孔子様は言ったのでしょうか。よほどの人物だったんでしょうね。

今日も一日がんばります。