譬えば山を為るが如し|6月23日のことです。

譬えば山を為るが如し

子曰わく、譬えば山を為るが如し、未だ一簣を成さずして、止むは吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり。(子罕第九)

しのたまわく、たとえばやまをつくるがごとし。いまだいっきをなさずして、やむはわがやむなり。たとえばちをたいらかにするがごとし。いっきをくつがえすといえども、すすむはわがいくなり(しかんだいきゅう)

【訳】
先師が言われた。
「修行というものは、たとえば山を造るようなものだ。もう一もっこで完成するのにやめるのは、自分の責である。また、窪地を平らにするのはたとえ一もっこでもあれば、それだけ自分の仕事を進めたことになる」

6月23日、今日の論語一日一話です。

論語コンプリートには”進むも、停滞するもすべて自分次第”とありました。

自分のことですから自分の責任というのは当たりまえのことです。

しかし、やれないやらないはなぜ生まれるのでしょうか。

わかっているのに。

人間は完全ではありませんが、成功する人はやはりやっている人なんでしょうね。

こんな風に考える時間も必然なのでしょうね。

今の自分に必要な状態。

あと一歩をあちこちに作っているわけですからすべてやり切るようにするしかありません。

今日も一日がんばります。