吾爾(なんじ)に隠すこと無し。吾行なうとして二三子(にさんし)と与にせざる者無し。是れ丘(きゅう)なり。
(二三子以我為隠乎。)吾無隠乎爾。吾無行而不興二三子者。是丘也。
「(諸君はわたしが隠しをしていると思うのか?)私は隠し立てなどはしない。いかなることでも、わたしは諸君と行動を共にしないことはない。それがこのわたし(丘)なのだ」
この章は、門人たちが、孔子がなにか別に深遠なるものをもっているのではないか、と考えたのに答えたものである。孔子は自分の日常行動をさらけだすのだが、門弟たちに対する最もよい教育だと認識していた。
”乎爾”は荻生徂徠流では、”のみ”と訓んで句末の助字とする。筆者は採用しなかった。
5月4日、論語一日一話(孔子に学ぶ人生の知恵365)の言葉です。
おはようございます。
孔子の日常生活から学んでいったんでしょうね。
少し気になって調べましたが中国も西暦を採用している。
キリストの誕生からが西暦。
日本は皇紀2680年という見方も一応できますね。
殷のがおこったときから中国の年号が始まるとすると3500年。
文明に1000年の差がありますね。
日本はまだ縄文時代です。
今日も一日がんばります。