子之を哭して働す
顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰わく、子働せり。曰わく、働すること有るか。夫の人の為に働するに非ずして誰が為にかせん。(先進第十一)
がんえんしす。しこれをこくしてどうす。じゅうしゃいわく、しどうせり。のたまわく、どうすることあるか。かのひとのためにどうするにあらずしてだれがためにかせん。(せんしんだいじゅういち)
【訳】
顔淵が亡くなった。先師は弔いに行かれ、声をあげて泣き、身もだえして悲しまれた。お供の者が後で先師に「先生は身もだえして泣き崩れましたね」と言った。先師が言われた。「そんなに身もだえして泣いたかね。しかし、かの人のために、身もだえして泣かなかったら、いったい誰の為に泣くんだ」
7月7日の今日の論語一日一話です。
”普段温厚な孔子も慟哭することがある”と論語コンプリートにあります。
しかし、よほどのことなんでしょうね。
顔回への悲しみは論語にたびたび出てきます。
家族や親せき以外でこのよう人を思うことはそうありませんね。
よほどの人間関係と感じます。
そのようなに人に出逢うことは幸せかもしれませんね。
今日も一日がんばります。