束脩(そくしゅう)を行なうより以上は、吾未だ嘗て誨うること無くんばあらず。(述而)|4月26日

束脩(そくしゅう)を行なうより以上は、吾未だ嘗て誨うること無くんばあらず。(述而)

自行束脩以上、吾未嘗無誨為。

「束脩を備えて教えを求めてきた以上は、どんな相手でも、私はいまだかつて教えなかったことはなかった」
”束脩”の脩は乾肉(ほしにく)。それを束ねて教えを乞うときのお礼としていた。転じて、入学金のことをいう。今日の日本でも、茶道や華道の師匠たちは、弟子の入門時の礼金、あるいは月謝のことを束脩ということもある。
この章は、門弟をとるとき、あるいは人を教えるにあたって、孔子は、相手の人物の如何を問わず差別しなかったことを物語っている。

4月26日、論語一日一話(孔子に学ぶ人生の知恵365)の言葉です。

おはよございます。

束脩という言葉を一年ぶりに思い出しました。

人間の脳は使わなければわすれますが見た瞬間思い出すということもあります。

きっと記憶の中にはあるのでしょうね。

どんな人でも受け入れる。

どんな場所でどんな講義をしていたのでしょうか。

弟子は3000人ですが論語を読んだ人は何億といるのでしょうね。

人間の根本は変わらないものですね。

今日も一日がんばります。