明と謂い、遠とも謂う|7月27日のことです。

7月27日の今日の論語一日一言です。

子曰わく、浸潤の譖、膚受の愬、行われざるは、明と謂うべきのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行なわれざるを遠とも謂うべきのみ。(顔淵第十二)

しのたまわく、しんじゅんのそしり、ふじゅのうったえ、おこなわれざるは、めいというべきのみ、しんじゅんのそしり、ふじゅのうったえ、おこなわれざるをえんともいうべきのみ。(がんえんだいじゅうに)

伊與田覺先生の解説です。

先師が言われた。
「じわじわとしみこむような悪口や肌を刺すような訴えに、とにかく人は動かされやすいものだが、迂闊にそれに乗らないような人なら、明と言うことができるよう。さらにそういう人は遠(目先だけでなく先々まで見抜く)とも言うことができるよ。

じわじわとしみこむような悪口、肌を刺すような訴え。

とても難しい表現ですが、文句や陰口のことでしょうか。

論語コンプリートには”人の悪口に惑わされない者は聡明と言える”とあります。

明とは明知・明察・聡明のことだそうです。

浸潤とは水がじわじわと浸み込んで潤すこと。

膚受とは身を切られるなど、皮膚に直接傷つけられることの意味。

こういう意味だと論語コンプリートにあります。

じわじわと浸み込むような悪口。これは自分の周りの人から少しずつ聞こえてくる嫌な言葉のことでしょうね。

こういうことは普段からありますね。出る杭は打たれる。あまり目立つと少しずつあるようにな気がします。

肌身に受けるような痛切な訴えというのもまたあるような気がします。

「自分はこうなんだけど」と「あいつはこうなんだ」みたい言ってるみたいな感じでしょうか。

いずれにしても、悪口を言われるのは嫌な思いをします。よかれと思った場合はとくにです。

そんなことにも惑わされない強い精神が必要ですね。

自分に恥じることのない行動が必要ということで今日も一日がんばります。