文茲に在らずや|6月5日のことです。

文茲に在らずや

子、匡に畏す(し、きょうにいす)。曰わく(のたまわく)、文王既に没したけれど(ぶんおうすでにぼっしたけども)、文茲に在らずや(ぶんここにあらざるや)。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや(てんまさにこのぶんをほろぼさんとするや(てんのまさにこのぶんをほろぼさんとするや)、後死の者(こうしのもの)、斯の文に與るを得ざるなり(このぶんにあずかるをえざるなり)。(子罕第九)

先師が衛から陳へ行かれる途中の匡の町で恐ろしい目に遭われた。そのとき先師が言われた。
「聖人と仰がれる文王はすでに死んでこの世にはいないが、その道は現に私自身に伝わっているではないか。天がこの文(道)を滅ぼそうすると、私(後死の者)は文にあずかることができないはずだ」

6月5日、今日の論語一日一言です。

論語コンプリートには「自分の進むべき道に絶対の自信と覚悟を持つ」とありました。

人の生きる道を知り、人々に伝え歩く孔子様。

ここで命がな無くなるとしたら道は途絶える。

だから私は死なないという境地だったんだしょうか。

いろいろな苦難や困難を経験しながら当時としては長生きをした孔子様。

その教えが現在にも通ずるものであるのは驚きですね。

仏教、キリスト教、イスラム教より古い儒教。

こういうことを考える人がいる。

まだ日本は古墳時代というような時です。

中国はどこまで進んだ国だったんでしょうね。

今日一日がんばります。