仰げば彌高く|6月15日のことです。

6月15日の今日の論語一日一話です。

既に吾が才を竭くせり(すでにわがさいをつくせり)。立つ所有りて卓爾たるが如し(たつところありてたくじたるがごとし)。之に従わんと欲すと雖も(これにしたがわんとほっすといえども)、由末きのみ(よしなきのみ)。(子罕第九)

「自分の才能のあらん限りを尽くしてみても、先生は自ら立つ所があって聳え立っているようだ。先生の後に従っていこうと思っても、どうも手立てがない」

どんなにがんばっても孔子先生には追いつくこができない。

それほど偉大な人に出会えた顔淵さんは幸せものなのかもしれません。

哀公問う(あいこうとう)、弟子(ていし)、孰か学を好むと為す(たれかがくをこのむとなす)。孔子対えて曰わく(こうしこたえてのたまわく)、顔回なる者有り(がんかいなるものあり)、学を好めり(がくをこのめり)。怒を遷さず(いかりをうつさず)、過ちを貳たびせず(あやまちをふたたびせず)。不幸短命にして死せり(ふこうたんめにしてしせり)。今や則ち亡し(いまやすなわちなくし)。未だ学を好む者聞かざるなり(いまだがくをこのむものきかざるなり)。

「哀公(魯の君主)が「弟子の中で誰が学を好むと思うか」と尋ねられた。先師が答えられた。「顔回というものがおりました。彼は怒りを自分の関係ない者にまでうつさず、過ちを二度繰り返しませんでしたが、不幸にも若死にいたしまして、この世にはもう居りません。それから、本当に学を好む者はいないようでございます。」

お互いに大変認め合う子弟関係だったのでしょうね。

原因結果の法則(6月15日の中村天風一日一話)

およそ人生には、人生を厳格に支配している一つの法則がある。それは原因結果の法則である。そして人生というものは、その人が自覚するかしないかを問わず、この法則を応用する場合に比例する。すなわち、

「蒔いた種のとおり花がさく」

という法則なのである。俗にいう善因善果、悪因悪果の法則である。人間の運命の中に地獄作り、また、極楽を作るのも、この法則があるからである。